一食口として創造原理に生きる

信仰、創造原理、教会の事、日々感じた事を書いていきます。

ロードバイクメンテ

自転車通勤で使っている自転車は、SORAと言うコンポでかれこれ12年位乗っています。我ながら随分大切に乗っているなと自画自賛したいくらいです。

 

今回はメンテの一環でペダルとブレーキシューをセットで交換しました。ブレーキシューはカートリッジ式なので割と簡単に取り換える事が出来ました。しかし今回のメンテではペダルに対しては結構苦戦を強いられて格闘していた所でした。

 

と言うのは前回も出来たし普通の六角レンチで何とかなるだろうと、軽く思っててじゃあ今日Y’Sロードで買ってきたペダルを交換しようと、既存のペダルを外す時に、困ったことに右は何とか外せたのですが、左はかなり固着していて、びくともせず難儀していました。

 

そこで検索をかければもちろん様々方法が出てきます。ケミカルをスプレーする、長いレンチを使う、で、仕方がない、明日買ってくるかと思っていました。

 

そこで方法の一つに、単管を使うと書いてありました。端的には鉄パイプですね。しかし普通の家庭でそんなのはありません。

 

そこで閃いたのが、鉄でできた突っ張り棒ですね

 

これなら家庭でもよく使いますよね?ちょうど都合が良い長さの突っ張り棒があったので片方とってそれを使用した所、なんとかペダルを取り外す事が出来ました!

 

お金を使うのは最も簡単な方法ですが、やっぱり頭を使いなんとか出来ないかと探す事が大切なのだと思いました。

気がついてしまった停滞

最近コーチングを頑張ろうと約5年学びつつ、去年8月に認定コーチの資格を取って、さあやろう!と思って今年の2月に個人事業としてコーチングオフィスを開業しました。

 

それで、明日都内で実際の会場でマスターコーチが来られてほんとは行くつもりでしたが、予約を勘違いしていて出来なかった。てっきり前日の23時までが期限だと勘違いしていました。これが前だったらすぐにパスチケットを購入していたはずなのに今回は悩んでいたので先延ばしにしていたのです。

 

今日はこの出来事で、私は今は結構停滞しているんだなと自覚しました。今の事に安寧としていて、現状に甘んじて生きている感が否めません。これはこれで楽しかったり、なにより楽な感じがするので、なにか挑戦する事をしないで、ある意味保守的になっているのが課題です。年を重ねていく内にだんだんと保守的にまとまってしまいようでちょっと怖い部分もあります。だからこそ、前回の記事の様に立ち返る事を常に意識して、創造理想の自分にフォーカスしてやっていきたい。

変わらず続ける事

最近は夜9時あたりからPCを開いてブログと向き合う習慣が出来つつあります。まあ、ある程度の目標としてはなにか?基本的には今日思った事を毎日少しずつでいいから書いていく事が良いのかもしれません。この習慣性が何をもたらすか。まずはタイピングが少しずつ気持ち早くなりつつあるかな?と感じています。

 

思った事を言語化するという事は、自分を客観的に観察する事に繋がるので、自分が実はこんな事を感じていたんだなと、改めて思う事で、それがある意味自覚に繋がる事だなと考えます。

 

最近はちょっと停滞気味のコーチングをどうやっていこうかと悩んでいます。ある記事で問題と課題の違いについて書いてありました。その違いについて考えていこうと思います。

 

問題とは?

 

世の中には様々な問題がありますね。一言で言うとただ解決すべき事だと言えます。

 

私が思う事は、自分と無関係な事は基本的には問題と呼ぶことが出来そうです。

 

課題とは?

 

その世の中にある問題を、自分の創造目的にそって解決していこうと目的をもって解決していくものを課題と呼んでも良いと思います。この課題を解決してしていくごとに積みあがっていく実感があると言えるでしょう。

 

あとはどんなに忙しくても必ずPCを少しでも開き書いていく事、私の場合は、突発的に夜勤が入る事があるので、その時は、スマホから投稿するとか様々な方法があると思います。

 

ポイントは、想定外がおこったときにどうやったら出来るかを探す癖を身に着ける事と繋がると考えます。

 

ブログの1つ1つは微々たる記事ですが、これが積み重なっていき改めて振り返ればすごい量になっていて、自分でも驚く時が来ると確信します。

何度も立ち返るところ

この1年半の期間で思う所はありました。批判の報道を見るたびに心が揺れ動くし諦めにも似た感情も結構あります。そこで率直に思う事は何かというと、解散請求がどちらに転んでも受け入れる覚悟でいるという事です。

 

お父様は昔から、環故郷、ホームチャーチとよく言わていました。もし万が一解散になった場合ある意味それが半ば国家によって強制的に実現してしまうという事かなと考えてます。そうなると今まで教会に頼りっきりになってた子供の教育が家庭でやる事になり、より自分で責任をもって育てるという事にもなります。

 

礼拝もみんなで集まってではなく自分で自らの家庭教会の説教を考えてたり、修練会も無くなり、本当に今まで積み重ねてやってきた自分の信仰観と神様観が子供の教育に直結してくる事になると思います。

 

逆にそれが出来ていない人は、信仰は次々と失っていく事になりかねません。今までは、かなりの部分を教会に任せきっていたし、特に2世教育はそうしていた親は多いと思います。1世は伝道されて、教会で修練会や万物復帰で神様を実感してきた部分があったりするので、子供を送り出せば何とかると考えてた家庭も割といるでしょうね。

 

その前にやる事があるわけです。

 

昔のアベルカインの考え方は、世代によっては反対派の言うように思考停止と言われても仕方なかったかなとも思ってます。

 

原理講論は誰向けに書かれていたのかと言うと、もちろん韓国人ですが、特に当時の韓国のクリスチャン向けに書かれた書物です。なので、日本語に訳された原理講論を聖書をほぼ読んだ事の無い現代の日本人が読んでもかなりの齟齬が出てきてもなんの不思議もありません。

 

質問権に関しての思う所ですが、私は福本先生が様々な提言も含めて最終決定して出した内容なのでその後の報道には、裁判所から意見を求める連絡が来たとの報道を見ても、今までの姿勢を崩さず一歩も引かない決意で臨まれているので、その後の動向を見守るしかないなと思います。

 

そして今できる事は、いつでも創造原理に立ち返って生きるという事だと思います。創造原理とは、神様が天地創造する時のシステムとして作られた原理なので、それは今も昔も変わることなく運用されています。そして私たち人間は、神様の似姿として創造されましたので、神様と共に喜びあえる関係を目指していく事です。

 

SNSでの投稿は創造原理に則しているか?

自分の生活は、神様が喜ぶ歩みをしているか?

霊界で神様父母様に会った時に地上生活はどうだったか聞かれた時に何を報告出来るか?

 

そこにいつも立ち返って再出発を繰り返していこうと思います。

2世圏総会

今回の2世圏総会に参加しました。2世圏と言うと2世しか参加できないというようなイメージがありますが、40才前後は家庭青年として1世家庭でも参加が可能だったので行く決意をしました。とはいっても約9割は2世なので昔と比べて少数派になってしまったのだなとしみじみ思いました。

 

行こうと思ったのは、総会の話が出た時に、80歳になられたお母様ですが、あとどれ位地上世界におられるだろうか?一般的にはいつ霊界に行かれてもおかしくない年齢である事もあって、これを逃すとお母様に会える機会はほぼ無いだろうなと思ったからです。

 

世一観光のツアーという事で40才以下の参加は渡航費が無料という事でツアー代だけ負担だったので非常にリーズナブルにいく事が出来ました。飛行機代は一体どこから出ているのか気になりますが、それだけ多くの人に参加してもらいたかったのかなと思う事にしました。

 

韓国に着いたのは16時頃でバスに乗り込みみんなで食事をとりつつコンドミニアムに移動しその時点で22時で、移動するだけで1日目は終わりました。

 

客室のメンバーは同じ教会の家庭青年で不思議な事に1世家庭が3人と2世が一人、2世のお子さんで3世が一人の合計5人での宿泊でした。

 

夕食にでたのはソルロンタンと言う牛肉を煮込んだスープで、味は淡白で全く無いと言っても過言ではないでしょう。しかしそれが普通で、粗塩で味を調節する料理だときいて納得しました。

 

2日目はいよいよ本番の総会です。総勢6000名が集結する総会でバスが何十台も連なり混雑はありましたが、特にトラブルも無くかなり準備が整っていて、運営の精誠が存分に発揮されていたと感じました。

 

総会で感じた事は40代前後の家庭青年や2世が一堂に会したこと自体が大きな力になったと思います。私たちが、父母様の夢を受け継ぎ、共に神様の夢の実現に向けて歩みだすのだと思います。

 

お母様を遠目で見ながら、もしかしたら実体で会うのは無いかもしれないと思うとやっぱり行って良かったです。その後は聖地巡礼という事で私たちは天正宮を選択し向かいました。そこで思いがけずいつか行ってみたいと思ってたお父様の墓である、本郷苑に参拝する事が叶ったのが一番の恵みでした。

 

日本に帰り今多くの2世達が新たに出発する中で私は具体的に何を行動に移すかを考えて今年も夏が終わりを迎え、秋の風に入れ替わるこの時を生きていきたい

色眼鏡で見ない事

物事を判断するのによく使われる言葉で色眼鏡があります。意味は先入観、偏見を持って見るという言葉ですが、私自身も結構物事を色眼鏡で見てしまう事があるなと感じました。

 

よく使われる言葉をいくつか挙げてみます

  • これだから最近の若者は・・・・
  • あそこの学校は・・・
  • 家庭連合は・・・

このように、なにかと組織で一括りに判断している事に心当たりが結構ありますね。なので本当の見方としては、やはりひとそれぞれに千差万別の考え方があって、どうしても一括りには出来ないと思います。

 

家庭連合を一つとっても、世代、伝道された時の状況やそれからいつ頃辞めたのか等、一人一人全く異なる理由があるので、やっぱり一括りにされても困るものがあります。

 

それはもちろん逆の事も言えて、元信者でも様々、朝日の記者にも様々、共産党だって様々、何かしら報道されるとそれが総意のように感じるので仕方のないのだけど、大体はその組織のイメージで見てしまう事が多いと感じます。

 

イメージで語る事は特に悪い事では無いですが、それが誹謗中傷の類になると、人によってはだいぶ傷つく事があります。私の個人的な考えですが、別に教会に限らず、好きだろうと嫌いだろうと、どう考えるのかはその人の自由なので、私としては

 

そうですか、家庭連合が嫌いなんですね。分かりました。

 

これで終わりです。これは本人の意思なので特段に否定する事はありません。

 

ネットの世界で、家庭連合に限らず果たしてどの位の人が、実際に食口や当事者に会って話をしているのでしょうか?

実際に会って話してみた結果がやっぱりひどかったなら、それは事実として批判したら良いと思いますが、ほとんどが報道からくる印象だけで言っている人の方が多い気がします。特に匿名性の高いエックスなどのSNSはなりすましもありますし、だいぶ多いのではないでしょうか?

 

なので私としては、否定や誹謗中傷の意味を考えます。中山弁護士のブログで、雑魚は無視され、相手にされないけどそれが一転して強敵認定されると攻撃されるようになると書いてありました。

 

それを考えれば今の状況はまさしく強敵として認定されている、ある種の誉と受け止める事も可能です。

どこかで個人攻撃を受けたらどう捉えるか?例えば、いよいよ私も無視できない存在になったかと考え、影響力が高まったなと捉えればどうでしょうか?

 

この状況で私たちは教会では改革をはじめ、今まで無かった徹夜祈祷会や、天心苑祈祷室が各教会に配置されて、自分の心と改めて向き合う機会を与えられたと考えます。そこで自分が出来る事を整理します。ただ祈るだけでなく、実際に行動していく事が重要となります。

 

この峠を乗り切ればその先にあるのは何か?

 

それは行ってみなければ分からいけど、気を強く持って自分の出来る事をやっていきましょう。