何度も立ち返るところ
この1年半の期間で思う所はありました。批判の報道を見るたびに心が揺れ動くし諦めにも似た感情も結構あります。そこで率直に思う事は何かというと、解散請求がどちらに転んでも受け入れる覚悟でいるという事です。
お父様は昔から、環故郷、ホームチャーチとよく言わていました。もし万が一解散になった場合ある意味それが半ば国家によって強制的に実現してしまうという事かなと考えてます。そうなると今まで教会に頼りっきりになってた子供の教育が家庭でやる事になり、より自分で責任をもって育てるという事にもなります。
礼拝もみんなで集まってではなく自分で自らの家庭教会の説教を考えてたり、修練会も無くなり、本当に今まで積み重ねてやってきた自分の信仰観と神様観が子供の教育に直結してくる事になると思います。
逆にそれが出来ていない人は、信仰は次々と失っていく事になりかねません。今までは、かなりの部分を教会に任せきっていたし、特に2世教育はそうしていた親は多いと思います。1世は伝道されて、教会で修練会や万物復帰で神様を実感してきた部分があったりするので、子供を送り出せば何とかると考えてた家庭も割といるでしょうね。
その前にやる事があるわけです。
昔のアベルカインの考え方は、世代によっては反対派の言うように思考停止と言われても仕方なかったかなとも思ってます。
原理講論は誰向けに書かれていたのかと言うと、もちろん韓国人ですが、特に当時の韓国のクリスチャン向けに書かれた書物です。なので、日本語に訳された原理講論を聖書をほぼ読んだ事の無い現代の日本人が読んでもかなりの齟齬が出てきてもなんの不思議もありません。
質問権に関しての思う所ですが、私は福本先生が様々な提言も含めて最終決定して出した内容なのでその後の報道には、裁判所から意見を求める連絡が来たとの報道を見ても、今までの姿勢を崩さず一歩も引かない決意で臨まれているので、その後の動向を見守るしかないなと思います。
そして今できる事は、いつでも創造原理に立ち返って生きるという事だと思います。創造原理とは、神様が天地創造する時のシステムとして作られた原理なので、それは今も昔も変わることなく運用されています。そして私たち人間は、神様の似姿として創造されましたので、神様と共に喜びあえる関係を目指していく事です。
SNSでの投稿は創造原理に則しているか?
自分の生活は、神様が喜ぶ歩みをしているか?
霊界で神様父母様に会った時に地上生活はどうだったか聞かれた時に何を報告出来るか?
そこにいつも立ち返って再出発を繰り返していこうと思います。