一食口として創造原理に生きる

信仰、創造原理、教会の事、日々感じた事を書いていきます。

色眼鏡で見ない事

物事を判断するのによく使われる言葉で色眼鏡があります。意味は先入観、偏見を持って見るという言葉ですが、私自身も結構物事を色眼鏡で見てしまう事があるなと感じました。

 

よく使われる言葉をいくつか挙げてみます

  • これだから最近の若者は・・・・
  • あそこの学校は・・・
  • 家庭連合は・・・

このように、なにかと組織で一括りに判断している事に心当たりが結構ありますね。なので本当の見方としては、やはりひとそれぞれに千差万別の考え方があって、どうしても一括りには出来ないと思います。

 

家庭連合を一つとっても、世代、伝道された時の状況やそれからいつ頃辞めたのか等、一人一人全く異なる理由があるので、やっぱり一括りにされても困るものがあります。

 

それはもちろん逆の事も言えて、元信者でも様々、朝日の記者にも様々、共産党だって様々、何かしら報道されるとそれが総意のように感じるので仕方のないのだけど、大体はその組織のイメージで見てしまう事が多いと感じます。

 

イメージで語る事は特に悪い事では無いですが、それが誹謗中傷の類になると、人によってはだいぶ傷つく事があります。私の個人的な考えですが、別に教会に限らず、好きだろうと嫌いだろうと、どう考えるのかはその人の自由なので、私としては

 

そうですか、家庭連合が嫌いなんですね。分かりました。

 

これで終わりです。これは本人の意思なので特段に否定する事はありません。

 

ネットの世界で、家庭連合に限らず果たしてどの位の人が、実際に食口や当事者に会って話をしているのでしょうか?

実際に会って話してみた結果がやっぱりひどかったなら、それは事実として批判したら良いと思いますが、ほとんどが報道からくる印象だけで言っている人の方が多い気がします。特に匿名性の高いエックスなどのSNSはなりすましもありますし、だいぶ多いのではないでしょうか?

 

なので私としては、否定や誹謗中傷の意味を考えます。中山弁護士のブログで、雑魚は無視され、相手にされないけどそれが一転して強敵認定されると攻撃されるようになると書いてありました。

 

それを考えれば今の状況はまさしく強敵として認定されている、ある種の誉と受け止める事も可能です。

どこかで個人攻撃を受けたらどう捉えるか?例えば、いよいよ私も無視できない存在になったかと考え、影響力が高まったなと捉えればどうでしょうか?

 

この状況で私たちは教会では改革をはじめ、今まで無かった徹夜祈祷会や、天心苑祈祷室が各教会に配置されて、自分の心と改めて向き合う機会を与えられたと考えます。そこで自分が出来る事を整理します。ただ祈るだけでなく、実際に行動していく事が重要となります。

 

この峠を乗り切ればその先にあるのは何か?

 

それは行ってみなければ分からいけど、気を強く持って自分の出来る事をやっていきましょう。